
的川泰宣先生からのメッセージ
創立25周年にあたり、宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授・的川泰宣先生よりお祝いのメッセージをいただきました。
先生の思い出のエピソードをふくめ、心温まるメッセージです。ぜひご覧ください。
以下の文章は、動画の内容をもとに、読みやすさを考慮して話し言葉を一部整理したものです。
内容や趣旨は変えていません。
ちばサイエンスの会25周年 的川宣泰先生お祝いメッセージ
◆ごあいさつ・近況 ちばサイの皆さん、こんにちは。大変ご無沙汰しております。 このたびは、25周年おめでとうございます。 大変ご無沙汰している理由というのは、私はもうこのように大変年を取りまして、現在84歳になりました。日本人男性の平均寿命は81歳あまりですので、もうそれをとっくの昔に過ぎてしまいました。 体のあちこちもガタが来ているんですけれど、特に膝が痛くて、なかなか遠出ができない。いわゆる「出不精」になってしまいました。 そういうわけで、大変ご無沙汰をしておりますが、現在のちばサイの皆さんの大変精力的な幅広い活動を敬意を持って眺めております。頭が下がる思いで見ております。
◆私にとっての「千葉の地」 皆さん活躍されてる「千葉の地」は、私にとっても大変思い出の多いところです。 昔、東京大学の第二工学部が、西千葉駅の現在は千葉大学の敷地になってるところにありました。そこに私の師匠だった糸川英夫先生の研究室もありました。 私が大学院の頃も、まだ糸川研究室が残ってましてね。総武線で西千葉まで来て、燃料をこねたり、燃焼実験をやったりと、そうした研究に、時々ですけども携わっておりました。 千葉の地は、そういうわけで非常に思い出深い地です。 遡ると、1955年に「ペンシルロケット」が水平発射されたのが「国分寺」という街で、国分寺の水平発射の時が、日本の宇宙開発の始まりと言えるんでしょうかしらね。 その後、発射場は上に向かって打ち上げるために土地を探した挙句、秋田県の「道川」というところに移 るのですけれども、道川に移るまでの間、千葉でずいぶんと研究がやられたんですね。 道川に行った後も、基礎的な研究をやるところは全部千葉でした。千葉は、日本の現在のロケット技術につながることを、みんなで切磋琢磨しながら育てていった、ロケット技術の「温床」の役割を果たした街だというふうに思ってます。
◆私の一生の中での「最高のシーン」 今日、何をお話ししようかと考えてたんですが、数々ありますが、日本の宇宙開発の歴史については様々な本も出ていますし、読めば大変分かるようなことばかりです。 そこで、私が個人として非常に印象に残ったこと、私の一生の中でどんなことが最高のシーンとして心の中に焼き付いているか、その二、三の例をお話ししたいかなと思います。
①1957年:スプートニクの光 最初に思い出すのは、宇宙に関係したことですと、1957年の「スプートニク」の打ち上げですかね。私は高校生でした。 生まれたのが「呉」という街で、中学までは呉の街にいたんですが、高校になってから広島に移ったんですね。広島の高校1年生の10月に、スプートニクが打ち上げられたというニュースがあって。 実は、私がその少し前まで通っていた中学校の担任の先生が、スプートニクの光を肉眼で見た日本で2番目の人だったんですね。この方は大学の時に数学科に所属してたらしいんですけど、卒業論文で小惑星の軌道計算のようなことをやっていたらしくて。 おそらく、ソ連からどうやって手に入れたのか、スプートニクの軌道について自分で研究をして、呉の街で見るとしたら、何月何日の何時頃に、どの方向に見えるということを、それはもう手計算で自分でやったらしいですね。それで、日本で2番目のスプートニクの光の発見者になった、というわけです。 高校の寮に入ってた私のところに電話がかかってきて、「おい、スプートニクの光、見たくないか」っていうんで、「え、そんなもの見えるんですか」って言いましたら、「母校に来れば見せてやる」とおっしゃって。 その電話がかかってきた週の土曜日に学校に行きましたら、友だちも5、6人呼ばれていて、みんなで校舎の屋上に上って、スプートニクの光を見るのをリードしていただいたんですね。 屋上に行ったら、物干し台みたいなものが立ってましてね。吊り下げられた紐の上を、白いテニスのボールを先生がポンポンと投げて、みんながちょっと離れたところからそれを確認してたんですが、よく見えてたテニスのボールが、暗くなってくるとだんだん見えなくなってきてですね。 でも、じーっと目を凝らしていくと目が慣れてきて、やがて、うっすらとした光でも見えるようになりました。「こうやって目慣らしをしておけば、スプートニクの光は非常に弱い光だから、見えるようになるよ」ということでした。 そのうち、「あそこの松の木を見てごらん、あそこのちょっと右側の方を、今じーっと見てると、もうじきスプートニクの光が浮かんでくるから、よく見てな」っていうんで、みんなでじーっと見てましたら、私の隣に立ってた男の子が「あ、見えた」と叫んだのを皮切りに、だんだんとみんなが見えるようになって、私もその光を捉えました。 スプートニクは小さな衛星ですから、太陽の光を反射する面積が非常に小さいんで、弱々しい光になってしまうんですね。私が見たスプートニクの光は、点滅しながらついたり消えたりする、頼りない光がゆっくりと夜空を移動していく、そういう姿でした。 私の心の中に浮かんだ、その時の気持ちはなかなか複雑ですが、当時1957年というのは、あと3年後にはいわゆる「安保闘争」が盛り上り、そのピークを迎える時期でした。学校の先生方も巻き込まれた「勤評闘争」が、その前哨戦のようにあった、日本が大変騒がしい時代を迎えていた頃なんですね。 日本がこれからどうなるんだろうという不安を持ちながら生活していた我々のところに、突然スプートニクの光を見たものですから、 色々な思いがない交ぜになって、心の中では、点滅して動いていく光が非常に私の心の中では神秘的でですね。人間の力で作ったものが地球を回ってるということが、非常に不思議でですね。 そのことで、なんとなく自分の心の中に、これから全世界の人々の協力で、いい社会が来るんじゃないのかなというイメージを抱いてたんですが、残念ながらそのイメージというのは外れてしまいました。 人間は21世紀の今になっても、世界の各地で戦争が起きていて、人々が幸せにみんなで暮らすということとは程遠いような世の中だなということがあって。私なんか、こんなに長生きしていても、何のための一生だったのかなっていうようなことを思うと、非常に力のなさを嘆くような感じですね。 それでも、なんとか人類は絶滅を免れてる。そういうことを考えると、あのスプートニクを見た時のことがが、今でも自分の心の中に非常に鮮やかに浮かぶのは、一筋の希望の光としてそれを見てたんだろうなと思います。
②2026年:はやぶさ2・トリフネフライバイ 私が携わった宇宙活動は非常にたくさんあって、一言ではなかなか言い切れませんけれども、ごく最近、トリフネ・フライバイを「はやぶさ2」探査機が延長ミッションの中でやりました。 はやぶさ2というのは、「リュウグウ」という小惑星に近づいて、2度着陸してサンプルを取ってきて、そのサンプルの解析の中から、太陽系の始まりとか進化、それから私たちの生命の元が宇宙からたくさんやってきたらしいという、太陽系の進化あるいは生命の誕生や進化についての非常に示唆の多いデータを与える仕事をやったわけですけども。 それはそれで大変大きな仕事だったと思いますが、地球に一旦帰ってカプセルを放出して、本体の方はもう一回宇宙に戻って、2つの小惑星をさらに観測しようということで、再び旅立ったわけですね。 その1つ目の小惑星、ターゲットになったのが「トリフネ」という、このあいだの(2026年)7月5日に接近したものでした。 接近するにあたって、チームのリードをしているは、はやぶさ2のプロジェクトマネージャーから委託を受けて、三桝くんという若い先生がやってるんですが。 接近をして観測することで、小惑星についてのデータがまた増えていくから、それでいいだろうというぐらいに、一応最初は考えてたんです。 そのうち、みんなの議論の中で「これは地球の防衛と大変関係があるんじゃないか」という話が出て、そのことを真剣にみんなで議論するようになったようですね。 そのプロセスは聞いても大変感動的な話なんですけど。 皆さんご存知のように、約6600万年前、メキシコのユカタン半島のあたりに10kmぐらいの隕石が落ちてきて、それが元になって、全盛時代にいた恐竜が、かなり早いスピードで絶滅を迎えていくということがあったのが、定説になってるようですけれども。 今同じように10kmの隕石が地球に、本当に衝突してきたら、人類はおそらく為す術がなく、やっぱり恐竜と同じような運命をたどるだろうと言われてますね。 2013年にウラルの田舎にチェリャビンスクっていう街がありますが、そこに、大気圏突入前の大きさが20m弱くらいの隕石が落ちてきて、20mでも大ショックだったんですよね、画像を見ると。 そんなのが、もし東京に降ってきたらですね、本当にこれは東京自体が大混乱に陥って、大変な被害を受けたでしょう。ただ本当にウラルの田舎の方だったから、死者は誰も出なかったけど、でも建物は何千個として破壊されたし、千数百人の負傷者も出たと。 そういうことが現実に起きるんだということをみんなに知らしめて。それ以降、国連が中心になって、天体がもし急に降ってきた時に、みんなでどうするかという「地球を防衛する」今流行りの言葉では「プラネタリー・ディフェンス」という言葉がありますが、そういうことを研究しようじゃないかと、各国で大変今盛んになってる研究です。 小惑星が隕石のもとになる天体なので、小惑星の研究が、おそらく地球防衛に繋がることだという問題意識が非常に研究者の間では高まってきました。 文字通り小惑星が隕石になって降ってきた時に、どうやってそれを撃退するかということになると、まず時間がなければ、例えば原爆をその小惑星にぶつけて破壊して粉々にするとか、あるいは接近させて原爆を爆発させて軌道を変えるとか、そういうことが緊急の事態になるんでしょうけれど。 ずっと前に軌道がもう分かっていて、それで時間がある場合には、そんな過激な方法ではなくて、例えば物体を衝突させて、軌道を少しずつ変えていって、地球に衝突しないようにするという防衛方法もあるわけですね。 そうすると、小惑星がどういう塊なのかをじっくりと見る必要があるわけで、そのために今小惑星の研究というのが、欧米中心に日本でも非常に盛んになってるわけです。それのサンプルを取ってくると、大変たくさんのことが分かるということもあって、先駆けの研究になったのが「はやぶさ」のミッションだったんですね。 はやぶさ2は文字通り非常にいい仕事をしたと思いますが、その延長ミッションであるトリフネ・フライバイについても、ただ通り過ぎるだけじゃなくて地球の防衛に繋がるのであれば、できるだけ立派な資料を取りたいと。 立派な資料を取るためには、元々はやぶさ2というのは、そんなことのために設計されたものじゃないので、カメラも非常に優秀なものを持ってるわけじゃありませんし、そうするとちゃんとしたデータを取るためには、できるだけ接近しなきゃいけませんね。近いところで見れば見るほどいいデータが取れるわけですから。 元々ぶつけることは想定してないので、ぶつかったらしっかり観測することすらできないってことで、ぶつからないように、でもできるだけ接近するというので、当初は数kmのところを通過するミッションが、みんなの議論の中で「ひょっとしたらもっともっと近づけるんじゃないか」ということになって。 若い研究者の中には、地球の防衛に繋がるということで、大変やりがいを感じて、自分たちの研究能力をフルに発揮しようっていうチームが出来上がっていったみたいですね。そのこと自体が大変嬉しいことでですね。 昔、アポロ計画がアメリカで立ち上がった時に、その頃アメリカは、ベトナム戦争なんかもやってましたし、ミサイルとか、戦争のために使う技術のところに、宇宙好きのエンジニアが派遣されてた人が非常に多かったわけですけど。 アポロ計画が立ち上がっていくと、戦争のためのロケットではなくて、我々はそういう新しいことを発見すること、大きな冒険をすること、そういうことのために自分は働きたいということで、アポロ計画に大量のエンジニアが流れてきた時期がありましたね。そのこと自体も、歴史の中で大変嬉しいことだったわけですけど。 それに近いことが少し規模は小さいけど、トリフネのフライバイでは若者たちの力が発揮されるチャンスが出てきたんですね。 大変優秀な人たちだったんでしょう。トリフネのフライバイにあたっても若いエンジニアが本当に活躍をして、はやぶさ2自体のハードウェアはもうすでに宇宙飛んでるので、いまさら変えられませんから、はやぶさに搭載しているもので変えることができるのは、ソフトウェアの中身だけなので、ソフトウェアをできるだけいじって、できるだけ近づけるようにはやぶさ2を誘導する、そういうことを懸命にやった結果、800mのところを通過するという計画が出来上がりました。 ただもう1つ小惑星、ターゲットになってるものがあるので、ランデブーをしてじろじろ見るっていうところまではちょっとできなくて。非常に速い速度でトリフネのそばを通り過ぎながら、カメラでできるだけいいデータを取るということに切り替えられたんですね。 そういう社会的な役に立つやりがいが、非常に皆さんを元気づけました。それで7月5日に、秒速の5.2kmという非常に速いスピードで、トリフネをフライバイしながら、可視光のデータや赤外線のデータも取りました。 その結果、写真を見た途端、私、ハッと思いましたけど、はやぶさの初号機が通り過ぎた「イトカワ」という小惑星と大変よく似てましたね。あれは、2つの物体がくっついたような、バイナリ・コンタクトっていうんですか、そんな名前で呼ばれてる。 一旦大きな小惑星だったのが、何かが衝突したかして昔、一旦バラバラになったんだけど、また重力でずーっと近づいていって、その2つの塊がまたくっついたような形。 イトカワという星は、見た途端我々はいろんなあだ名をつけたんだけど、最終的に「ラッコ」というあだ名ね。ラッコの形によく似てました。今度のトリフネは、見た感じ「雪だるま」に非常によく似てましたね。雪だるまの様子が、雪だるまの顔とか腹というか、そういうところの部分が、ざーっとそこを横断しながら、得られたデータで非常によくわかります。 こういう中がスカスカでバラバラのものがだんだん寄り集まってきたものは、大変内部の結びつきが脆弱なものですから、おそらくそういう小惑星であれば、我々が飛ばした何かの物体をそれにぶつけると、割と簡単に壊れるかもしれない。 それから、密度が低いから、我々の探査機の力で何らかの軌道変更は、たぶんできやすいんじゃないかと、原爆を使うまでもなく。非常に大きなもので時間がなければもう原爆使えばいいんじゃないかということで、そういういくつかのことを国連中心になっていろんな方法が模索されてるわけですけど。 今申し上げたいのは、トリフネのフライバイにあたって、日本の若いエンジニアが自分たちの科学をみんなのために使うというチャンスが訪れたというので非常に元気になったというのが、大変私はうれしくて。 そういうことがおそらく、ちばサイの皆さんが子どもたちを相手にやってらっしゃることと通じるのかなと、私の大変印象に残ったエピソードとしてひとつ紹介したわけです。
◆ちばサイの皆さんに贈る言葉 あまり長く喋るともうご迷惑でしょうから、もう一つ最後にちばサイの皆さんに、贈る言葉をご紹介します。 アメリカの教育者でウィリアム・ウォードという方がいらして、この人がいろんな教育に関する名言を吐いてましてね。私が一番気に入って、今でも自分の座右の銘になっているその言葉を紹介します。もうご存知の方も多いかと思いますけど、こういう言葉です。 『平凡な教師は、ただおしゃべりをする。良い教師は、説明をする。優秀な教師は、やってみせる。しかし、最高の教師は、子どもの心に火をつける。』これは日本語に訳された言葉ですけれども、非常に印象深い言葉ですね。 『子どもの心に火をつける』という言葉は、非常に私の心に響いた言葉です。私もたくさんの方に小学校から始まって教わりましたけど、おしゃべりをするだけの先生はもちろんいたし、それから丁寧に科学のことを説明してくれる人もいたし、それから自分でいろいろやってみせる人も確かにいましたけど、 でも一番結局今でも印象に残っているのは、かなり乱暴でも、自分の心にショックを与えてくれた人、そういう人が何人かいて、その人が自分の心の大変大事な部分を育ててくれたんだなという印象があります。 ちばサイの皆さんに、是非そういう子どもの心がパァーッと火がついたような状態になる、そういう状態を是非子どもたちと一緒につくっていただきたいなと思っております。 それを贈る言葉として、25周年のおめでとうございますの言葉にかえさせていただきます。 今後もどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

